2020年8月3日月曜日

無駄と遊び

五月のはじめ頃に早起きして近所を散歩してたら、うちからそう遠くないけど普段あまり通らない道沿いのビニールハウス脇に、切断された葉や花のかけらのようなものが箱に入ってるのが遠目に見えて、これ剪定して捨てちゃうのかな?不要なら貰えないかなーと思って(何せ暇を持て余してたもので…)「すみませーん」って声をかけたら出てきてくれた同年代の男性に(接客で培った愛想と中年の厚かましさを駆使して)話しかけてみたところ、これを素に新たに本体を育てると淡々と説明して下さいました。後で調べたら挿し芽という植物のふやし方なんですね。おーなるほどーと感心してたら、やはり淡々と「ちょっと持って帰りますか?」「いいんですか!」ということで分けて頂いた三かけらを、教えて下さった通り数日乾燥させたのち土に差して何となーく水やりを続けるうち、いつの間にかすくすく育って先月半ばに可憐な赤い花をいくつも咲かせてくれて、この長すぎる梅雨に心の晴れるような出来事でした。

この十日間くらい、自分にしてはいっぱい無観客ライブ配信をネットで観て、電車に乗って出かけることなく部屋でくつろいでライブを観れるのもそれはそれでとっても楽しいけれど、次にライブハウスでいつものように一杯ひっかけつつ人の多さに内心へきえきしながらライブ観られるときは嬉しすぎて泣いちゃうかもしんないな、としみじみ思いました。そして、好きなギタリストさんがこれまたいつものように頭をぶんぶん振って長髪を振り乱しながら演奏してる姿に、もしこの人が短髪で爽やかな笑みを浮かべてそつなく演奏したとして、聴こえる音が全く同じだとしてもどこか物足りないだろうなという気がしました。荒ぶるパフォーマンス込みでの生の表現だし、一見無駄で非効率なようでもそこに含まれる様々な要素の豊かさ、美しさってあると思うし。過剰なものっていいよね。不要不急の尊さよ。


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