2020年8月10日月曜日

暑中に

おはようございます。暑い夏がやって来ましたね。このまま梅雨が終わらず冷夏が続いたら果たして世の中どうなってしまうのか…と内心怯えていたので、暑さがしんどくないことはないけど、安堵してもいます。広島長崎の原爆記念日は今年も終わったけど、お盆の帰省ラッシュもなければ甲子園もない夏、暑さは遅れて到来したけど様々な面で平常運転とは程遠い夏。これからもっと、生活の多岐に渡って、イレギュラーなことが増えて行くんだろうなと案じずにはいられません。「いつもは」「普通は」「みんなが」、それなりに長く生きてきて自分も深く考えずつい使ったりするけど、その実とてもあいまいな言葉が指し示すところの人による齟齬の大きさを、ここまで肌身に迫って感じることはなかったような気がしてます。ウイルス(や放射能)は肉眼で見えるものではないから、科学的な視点と生活実感をどうやって折り合いをつけるかは個々人の判断で大きく異なり、政治に翻弄され、人それぞれの思惑が錯綜する社会に生きる中、メディアとの付き合い方や距離感は人によって様々だし正解らしき意見はあちこちで散見されるものの容易に答えが見つかるはずもなく、とはいえもちろん人は一人だけで生きて行けないわけで、自分のような頭でっかちな人間は混乱もするし思考放棄したくもなるし下手するとそのうち本当に死にたくなるかもなーとも正直思う。けど、この数ヶ月で自分の中で最も響いた言葉が、アメリカで警官に殺されたジョージフロイドさんのお兄さんがデモでスピーチされている動画の終盤で呼びかけていた「Educate yourself」、まさに!!!と思ったし、スピーチ全体の流れや語調や声の響きも含めて、胸に迫りました。涙出た。話は少し飛ぶけど、最近読んだ「急に具合が悪くなる」という本にめちゃめちゃ感動して、これは手元に置くべき本だ!と近所の本屋を何軒か探したけど見つからず、今日あと一軒行ってなかったら通販かなという感じなのですが、この書簡集では著者のお一方が「急に具合が悪く」なっていく過程で哲学的な思索を含めた真摯な言葉を投げかけ合っておられて、今はいわば世の中が「急に具合が悪く」なっている状態、いずれにせよ、人は生きられるところまで精一杯生きる他なく、この時代にここで生きる一個人としてその先の未来をも視野に捉えながらどのように折り合いをつけていくか。そういったことに漠然と思いを馳せ(るようなふりをし)つつ、今只中を味わって生きることをできる限り諦めずにいたい、そしてそれはとても恵まれたことだし、結局は、時代を超えた人間の普遍的なテーマなのかもしれません。

写真は、一ヶ月ほどまえに酔っ払って最寄駅からふらふら歩いてる途中で、閉店時間を過ぎた近所のドラッグストアの駐車場で意味もなく撮りました。

なんとなく、大した意図もなく、寝起きの勢いにまかせて言葉を吐き出してみました。お目汚し失礼しました。読んで下さった方ありがとうございます、どうぞ良い一日を、そして良い夏を迎えられますように。

2020年8月7日金曜日

Go To Sea

最近、決まった予定のない日のルーティーンが自分の中でおぼろげに定まってきた感があるのですが、昨日は朝起きておもむろに鍵盤で曲を作り始めて食事以外ひたすら根を詰めて、まあまあ適当なとこもありつつも夕方には一応まとまった形になったので、散歩に出かけて一息つきました。久しぶりの感覚でした。

6月と7月のオンライン企画「モノ・ジ・トリ」で試しに鍵盤を使ってみたら、ここ十年ほどウクレレ弾き語りに苦闘してきた甲斐あってか、鍵盤での弾き語りが昔に比べたら嘘みたいに楽にできるようになってて、はしゃいで好きな曲をカバーして遊んでるうちに歌の断片が出てきたのでそこからやや強引に膨らませてみたのですが、ウクレレと鍵盤は自分にとって自由度やら何やら全然違うし、今のこの状況下で海に行きたいけど行けない気もちとストーカーじみた執念がそこはかとなく漂う、不穏な曲になってしまったような気がしてます…。曲ができたときっていつもすぐには客観視できないから、まだよくわからないけど、今月の「モノ・ジ・トリ」は8月28日金曜日の15時からに決まったので、ひとまずそこで演奏できたらいいな。練習しよ。よろしくお願いします。

自分の中にぐぐっと潜って集中して、心の奥底に押し込めた感情やその他もろもろの想いに向き合って必死に言葉をすくい上げて形にしたら、曲の良し悪しは抜きにしても、なんだか清々しい気分です。

曲のタイトルは、最初「Go To Sea」にしたんだけど、今朝「wanna go to sea」に変更しました。海辺にライブを観に行けない夏の妄想ソング。

2020年8月3日月曜日

無駄と遊び

五月のはじめ頃に早起きして近所を散歩してたら、うちからそう遠くないけど普段あまり通らない道沿いのビニールハウス脇に、切断された葉や花のかけらのようなものが箱に入ってるのが遠目に見えて、これ剪定して捨てちゃうのかな?不要なら貰えないかなーと思って(何せ暇を持て余してたもので…)「すみませーん」って声をかけたら出てきてくれた同年代の男性に(接客で培った愛想と中年の厚かましさを駆使して)話しかけてみたところ、これを素に新たに本体を育てると淡々と説明して下さいました。後で調べたら挿し芽という植物のふやし方なんですね。おーなるほどーと感心してたら、やはり淡々と「ちょっと持って帰りますか?」「いいんですか!」ということで分けて頂いた三かけらを、教えて下さった通り数日乾燥させたのち土に差して何となーく水やりを続けるうち、いつの間にかすくすく育って先月半ばに可憐な赤い花をいくつも咲かせてくれて、この長すぎる梅雨に心の晴れるような出来事でした。

この十日間くらい、自分にしてはいっぱい無観客ライブ配信をネットで観て、電車に乗って出かけることなく部屋でくつろいでライブを観れるのもそれはそれでとっても楽しいけれど、次にライブハウスでいつものように一杯ひっかけつつ人の多さに内心へきえきしながらライブ観られるときは嬉しすぎて泣いちゃうかもしんないな、としみじみ思いました。そして、好きなギタリストさんがこれまたいつものように頭をぶんぶん振って長髪を振り乱しながら演奏してる姿に、もしこの人が短髪で爽やかな笑みを浮かべてそつなく演奏したとして、聴こえる音が全く同じだとしてもどこか物足りないだろうなという気がしました。荒ぶるパフォーマンス込みでの生の表現だし、一見無駄で非効率なようでもそこに含まれる様々な要素の豊かさ、美しさってあると思うし。過剰なものっていいよね。不要不急の尊さよ。