2017年2月27日月曜日

ある日曜日

ここ最近、ちょっと気張っていた疲れが出てしまって、布団と仲よくしてました。昨日の日曜日は、横になって食べ物エッセイ二冊を交互に読んでは寝床でごろごろしてたら(長電話に付き合ってくれた友達ありがとう!)子供の頃の日曜日の夕方をぼんやり思い出しました。日曜日、午前中は母に連れられてキリスト教の日曜学校に行って、午後は父親と図書館に行くことが多かったように記憶してます。両親とも一石二鳥の選択だったんだろうな。夕方帰宅して、薄暗い部屋の片隅で借りてきた五冊を傍らに積み上げて片っ端から乱読して活字の世界に没入してた時間の感覚が蘇ってきて。決して丁寧な読み方はしておらず、雑な読書の癖がついてしまった感はあるけれど、その後の自分を形作る原体験になっている気がします。テレビは一日三十分しか見せてもらえなかったけど、本はいくら読んでも文句言われることはなかったし。図書館を職場とするようになって、「みんなよくこんなに図書館に来るよね~」という同僚の方の言葉に、そうか日常的に図書館に通う人はむしろ世の中の少数派であるのか…と改めて気づかされました。
ただし、文章を頭の中で映像化することがそんなになくて、話の流れと、字面や語感や、感触的なイメージを断片としてぱっぱっと受け取ることが多いような感じです。情報処理能力は速いけれど想像力には欠けている。著者の語りを聞いている感覚はあるな。だから子供の頃は逆に、完全に虚構の世界を舞台とするようなファンタジーはむしろ苦手でした。日常感覚の延長で共感できるか否かが大事だった。話を真に受けて感情移入しすぎてしまうのでスリルやサスペンスは苦手だし、ホラーやミステリーも厳しい。典型的なエッセイ好きの日本人的な面はあります。
小学四年生の頃だったか、学校のクラス一丸となって百人一首に取り組んでたときがあって、おかげで今でも結構ちゃんと覚えていて、先日ツイッタ経由で見たこのページ、個人的にはすごくツボでした。「属性」の、男、女、坊主ってくくりがまた最高です。学研の学習漫画を買ってもらって読み込んでいたので、当時から歌の意味はまあそれなりに理解していたけど、改めて見返してみて今ひっかかるのは意味よりむしろ発語的に気もちよいところだったりもして。「よわりもぞする」「さしもしらじな」とかね。三十一文字の中でのリズム感。あとメロドラマチックだったり、枯れてたり、歌によってテイストの違いも味わい深い。
散漫にあれこれ書き散らしましたが、何が言いたいかというと、そういう人間なので、音楽を聴くときに歌詞の言葉をどうしたって気にせずにいられないし、曲を作って歌うようにもなって、自分にとっての言葉や歌は一体どういったものであるのか、などなど、しょっちゅう立ち止まって自分自身に問いかけながら、ちょっとでもよりよいものに近づけたらいいし、そのプロセスこそが醍醐味であるのかもしれないなーと思ったりする今日この頃です。
蛇足ですが、昨夜、布団でクロさんを傍らにはべらせて食べ物エッセイ二冊をまったり読みながら、ふとiPodでアートスクールを聴いてみたらば、中年女性としてのダメ感がそれはもう実に半端なくて我ながら笑えるほどでした。ダメなりにがんばって生きる。ロックンロール。

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