2012年10月12日金曜日

秋に物思う



















ようやく気候が秋に移り変わった今日この頃。
心身ともに調子を崩しやすくて苦手な季節ですが、今のところ悪くない感じです。



音楽のこと。
最近自分の中で合点が行ったことがいくつかあって。

キルケのやないさんが、ふえとゆみとばちとえふでについてのブログでわたしの曲について、「聞かせどころや落としどころがちゃんとあって、意味のわからないところがない。聞く人にちゃんと伝わる構成にも関わらず、いかにもといった感じにならないのは、宮本さんが沢山の音楽を聞いているからなのかなと思いました。」と評して下さって、あの場で自分の曲やらせてもらえただけでも滅茶苦茶うれしいのに、そんな風に言って頂けるなんて、ああなんてもったいない…としみじみ。キルケのサポートしてた頃によく好きな音楽の話したりしてたからかなと思うのですが、実際のところ、自分ではそんな風に思ってなくて、聴いてる音楽の幅が狭いことが若い頃は特にコンプレックスでした。本に関してもそうだな。洋楽や古典がぴんと来ないし詳しくない、通っぽくない自分が中途半端な気がしてずっとどこか引け目に感じてたし、今でもそういう面なくなったわけじゃないです。キスミー宅のリビングのCDラック見ると、名前だけは知ってる海外のアーティストがずらっと並んでいて、初めの頃はどれもこれも片っぱしから聴いてみたくてたまらなかったけど、よく行くときと行かないときの差が激しいから、借りるだけ借りて聴かずに借りっぱなしになっちゃうのがこわくて、結局ほとんど借りずにいます。けど音楽やってたり音楽好きを自認するような人ってそれくらい知ってて当然なんだろうと思うし。だからそう沢山の音楽を聴いてきたわけじゃないんです。ただ、好きなものは本気で好きで心のよりどころにしてきたので、その本気さ加減が今につながってる気がします。長年自己流でひっそり筋トレしていて、インターネットが「ばね」になって今に至るって感じ、でしょうか。

住む土地や食べてきたものがその人を作る、と言うように、聴いてきた音楽が今の自分の肥やしになっていることはひしひしと感じます。去年バッハーンで遠征ライブしたとき、帰りの車の中でiPodつないでオザケンの「ライフ」をみんなで聴いてて、ホーンセクションも含めてほとんど全部一緒に歌えることにびっくりされたけど、そんなふうに自然に血となり肉となっているものもあるし、自分の音楽を作ってみようとしたときとっかかりとなったのは当時よく聴いてた音楽でした。例えば、わたしはメロディーが自発的に浮かんでくることは滅多にないけど、まずトラックの原型的なものを作って、そこからメロディーと歌詞を組み立てていくことはできるので、それを自分の心の中では「一人グループイノウ方式」と勝手に呼んでたりします。実は。イースタンの吉野さんの「自分はギター弾くの上手くないから弦を全部は使わない(ことがある?)」というような内容のインタビューをどこかで読んで、そっかきちんとコード押さえようとしなくてもいいんだ、と拡大解釈してウクレレの弦四本中三本しか使わずに作ったのが「春辺」です。初めてソロで武蔵境スタットでライブしたとき、ウクレレでアルペジオの曲が多いのが新鮮だと言われたけど、音数の面だけで言えば、(おそれ多くも)ふちがみとふなとがひな型になってると思うし、Qurageの「東京ソニックユース」のピアニカは今にして思えば明らかに純子さんテイスト!そういや初めてライブで植野さん観たのはにかスープさやソースの花やしきでクラリネット吹いてたときでした。宅録でTASCAMの4トラックのカセットMTR使ったのは、かつてキセルのインタビューでその単語を何度となく目にしていたからで、それって一体何?ってネットで検索してsoundhouseで購入したのは2007年のことでした。安いし操作簡単そうだし(音質のこだわりからではなかった…)。あと、わたしは曲を作ると三拍子(6/8拍子?)になりがちで、circeの寺さんもそうだと言ってたけど、もはやレイハラカミサウンドがデフォルトになってる世代ならではかなって思うし。こんな風にいちいち挙げていくと本当にきりないです。

こないだチャットモンチーのコンビニエンスハネムーンという曲の動画をたまたま見て、なんじゃこりゃかわいい!って心中悶絶しました。自分が学生の頃流行ってたガールズバンドはどれも好きじゃなかったけど、もし今自分が十代だったらきっと夢中になってただろうな。かわいくてかっこいい。こういうのと比べると自分の歌なんて屁みたいなもんだわ…と思ってしょげたくもなるけど、花屋で売ってる花だけが花じゃなし、イネ科の花を愛する物好きだって世の中にはきっといるはずさ!そういう人に一本一本手渡すようなささやかで誠実な歌を目指したいです。そしてそれは同時にこれまで聴いてきた音楽へのごく個人的なラブレターでもあるわけで。

あと、最近「かたちあるもの」についてよく考えてました。言葉というかたち、音楽というかたち、楽器と言うかたち、はたまた人間という相似形のかたち。かたちあるものには必ず影が生じて、個々のかたちはいつか滅びる。かたちは強力な縛りにもなるけど、使いようによっては自分一人だけではとうてい辿りつけないところまで飛躍する翼にもなりうる。かたちの持つ象徴性と身体性をいかに結びつけるかのプロセスこそが重要なのかな、とか。そしていざというときに人を本当に救うのは教養、リテラシーじゃないかなと考えてみたり。これらについて詳しく書き始めるとめちゃめちゃ長くなってしまいそうだ。ああ、秋ですねえ。

クラリネットに関してちょっとだけ言うと、ライブで吹くと音が好きだって言ってもらえること多くて嬉しいけど、リードいちいち選ぶのは毎回骨だし、大抵クラ以外の楽器も使うから荷物重くて、楽しみのためとはいえ大荷物で自転車こいで電車乗り継いで、非効率的だし物好きだよなーって思ったりします。どの楽器を使っても自分の中でイメージする音楽というか「うた」は本質的には同じで、外に出る音が違うだけかなとずっと思い込んでいたのですが。先日ふと、ある楽器を演奏するという儀式的なプロセスを経ることによって集合的無意識とかアカシックレコード的な「何か」につながりうるのかもという気がしたんです。どっちについても詳しくないし、そういうことって頭で考えすぎるとかえって遠くなるから、これは、ここで書いたことで、自分の中で終わったことにしよう。

ふえとゆみとばちとえふでの話に戻ります。自分の曲を初めてバンド編成でやらせてもらってわかったことは、バンドで肉付けすることによって曲の世界が人にわかりやすく伝わりやすくなるんだなと。特に「たより」は、弾き語りのアレンジより間奏を長くして自分でクラ吹いたことも含め、各自が膨らませてくれたおかげで奥行きが出て立体感のある世界になった気がして、曲にとってこんなに幸せなことってないなと感無量…。適切なたとえかどうかはわかりませんが、例えばフジファブリックのサーファーキングを弾き語りでやったとしてもあの魅力はどうやったって出せないもんな、と思ったり。なるほど巷にバンドが山とあるわけだと改めて感じました。
ふえとゆみとばちとえふでのメンバーはもう何年も知り合い同士だけど、慣れ合いのなあなあの関係ではなく、全員が本気のぶつかり稽古ができたなという感じで、本っ当に面白かったです。よかったら名・プロデューサーcirce野内さんのブログ詳細レポと併せて、本番の動画、ぜひご覧になってみて下さい。

プレ・イラストレポ     終了直後レポ ポスト・動画レポ   


0 件のコメント:

コメントを投稿