2016年10月12日水曜日

「姉さんと僕」

先月は雨つづきでしたがここへ来てようやく秋晴れが顔を覗かせるようになってきましたね。こんにちは。
最近ずっと本を読めない時期が続いていて、職場で予約していた本も読まずに期限が来ちゃうし、人にお借りした本も読めてないし、友だちの著作にもざっと目を通したきりで、そしてそんなときの常として、どんよりした天気の休日など寝転がってひたすらばななを再読する日々でした。病んでます。
「姉さんと僕」というやや異色の短編があって、ばなな作品に多くない一人称が男性のおはなしで、前から妙に気に入ってたのだけど今やけに胸に沁みました。少し変わった主人公の生い立ちを通じて人は誰もが結局それぞれ他人と簡単には分かち合えない面があることがわかりやすく描かれているからか、あと、わたしの内面のトーンと似通っている気もして。外見や作る音楽はまあまあ女性っぽいけど、中身はこんな感じに近いように自分では思うけど、どうだろう。
ところで、何年か前の秋にアートスクールというバンドのベスト盤をよく聴いていて、そして今もわりとそういうモードで、「姉さんと僕」に出てくるアップルちゃんという女の子の描写が、わたしの中でアートのボーカルの方のイメージにどこか通じるなあとふと思いました。アートスクール、歌詞の言葉の意味とかじゃなくて、もっと深い部分で、何故だかふっと癒される感じがあるのは何でだろう。



きっと姉さんの中の奥深いところには、僕をとらえて離さない邪悪な執念が宿っている。どろどろした性欲も執着も混じった黒いうねりが、僕を自分だけのものにしておこうとしているのだろう。そして僕の中にもそれはある。姉さんは自分だけのもの、だれにも渡さない、きっとそう思っているのだろう。いろいろなずるい手管を使って、姉さんをひきつけておき、がんじがらめにする。(中略)しかし、僕は感じている。そのもっともっともっと奥までもぐったとき、そこには光がある、宗教の話ではない、ただそう感じるのだ。(中略)その中ではみんな等しくあたたかく、相手のことだけを、幸せを、生きていても死んでいてもその人らしさが保たれるようなことを望んでいるのだ。だから、僕はその手前の力がどんなに荒れていても醜くても制御できなくても、ちっとも気にならない。そんなものだろう、と思うだけだ。きっと自分がいじろうにもいじれない領域がおそるべき深さで存在していて、自分がなんとかできると思い込んでいるのだが、人間にできることなんて実はなんにもないのだと思うのだ。
ちょっと長々と引用してしまいましたがアートの曲の世界に浸りたいときって、要は、ここに書かれている「光」のようなものを感じたいのかも。うっすらと。真っ当な明るさや正しさに触れるには疲れすぎているとき、歌詞の表面的な意味だけ受け取るとネガティブだったりよくわからなかったりもするのだけれど、その音楽が心に投影するのはそういった光のような何ものかであるような気がします。



といっても、ベスト盤と最近の何作かしか聴いてない、ファンというには浅すぎるリスナーなのですがこの曲すごく好きだ

「姉さんと僕」は「まぼろしハワイ」という本の中の一篇で、この本の三つの話はどれもお気に入りです。あと、今月発売になった「下北沢について」というばななエッセイ集で、シーナ&ロケッツについて触れられている個所があって、特に、終わりの方の「ヒーローズ」という章がすっごくくて、そこだけでも是非とも読んでみてほしいくらいです。もしよろしければ

あと、唐突ですが、昨日ツイッタ経由で見たひきがたり動画に非常に感銘を受けました。人前でひきがたりを試みるにあたって、できるものなら、こういった曲を作りたいし、こういう演奏をしたいものです。



なんだか話の流れが支離滅裂になってしってすみません…
  

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