2012年8月27日月曜日

we can do magic?















この一ヶ月余り、自分にとって目に見えて大きな出来事はなかったけど、内面ではそれなりにいろいろあって(ありすぎて)頭の中がちょっとずつ混乱してきたので、気もちを整理するために何か言葉にしてみようと思います。 腰を据えてぐだぐだと。

春くらいに、買って一度二度聴いてそれきりになってしまうCDが最近とみに多いことに気づいて、ディスクの内容的な問題なのか、それとも自分自身に問題があるのかよくわからなくて、それ以降なんとなく新譜を積極的に仕入れようという気になれずにいました。日常に音楽は常に欠かせないけど。

それが、先月七尾旅人の曲をダウンロード購入したらとてもよくてアルバム発売ががぜん楽しみになってきて、前回も書いたようにチャラさんのアルバムを借りて、そのとき去年発売になっていた奇妙さんの二枚組CDも一緒に借りてきて、そこらへんから勢いがついて久しぶりにまとめて買ったり借りたりしました。旅人さんのアルバムは予想を裏切られることなく期待を超えた素晴らしすぎる音楽。一緒に(今さらですが)買ってきた平賀さっちゃんのタワレコ限定シングル、素敵でした。ツタヤで見つけて借りてきた星野源シングルのカップリング曲「乱視」が、曲もサウンド的にも、やらしいくらいにツボを押さえてくる感じだったり。他にもいろいろ出会いや発見やらあって面白かったです。

少し前にツイッターで、詳しくは覚えていないんだけど、歌詞というのはその時々の自分に都合のいいようにねじまげて解釈できる占いみたいなもんだ、という意見を目にして、ひどく納得させられました。言葉を発した人の意図をあれこれ想像しようとしてみたとしても、結局は自分の見たいようにしか見えない、というのはたしかに一面の真実を表していると思います。

そして、音楽をやってる飲み友達の発言で忘れられないのが、音楽というのは発した時点で自分の手を離れて音楽の神様に捧げるものだ、みたいな内容です。演奏したり曲を作る側の立場としては、よくわかるし、見習うべき姿勢だなと思ったので印象に残っています。逆に、音楽に答えや正解はなくて自由だっていう意見も、わかるんですけどね。「音楽」と大ざっぱに一言でくくってしまっているから表面上は違って見えるだけで、どういった段階のものなのか正確に定義したら、結局は同じことなのかなという気もするな。こんがらがってきたぞ。

好きなミュージシャンのインタビューで、「歌詞は、自分を映す鏡や予言書のようなものでもあり、謎だと思う」という言葉があって、これも非常に印象的だったのですが、それを敷衍するかのような内容として「海辺のカフカ」の一部を連想していて、今ページをめくって探してみたらすぐに見つけられたので引用します。

「詩と象徴性は古来、切り離すことのできないものだ」
「象徴性と意味性とはべつのものだからね。彼女はおそらく意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れることができたんだ。(中略)芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のことだ」

これもここしばらくの人生の裏テーマに通じる内容です。海辺のカフカや1Q84は裏テーマにリンクしてて非常に助かってます。これぞ物語の効用という感じ。頭おかしいんちゃう?と自分でも思ったりするけど、自分は自分の物語の一人称でしかないから、他人に迷惑をかけない限り、まあそれでいいのかなと。ところで、読み返してないから本当のところは定かでないけど、春樹初期作に出てきた「配電盤」、最近の自分はあれみたいだなという気が昨日ふとしました。今度確かめてみよう。

話が思いっきり逸れました。そして今度は飛びますが、昔web日記で自分が引用した伊丹十三さんのエッセイの一部をここで再度引用します。

そんなことより、どうして心を空しくして楽器を習い始めないのか。プロになるわけじゃないんだ。今からでも決して遅くはないよ。楽器を弾くということは愉しいことだよ。楽器は決して人を裏切らない。生涯の友だちだよ。そうして、楽器を弾くということは、楽譜を通じて、バッハやモーツァルトと直接つきあうということなんだよ。(中略)音楽というのは耳や鼓膜のために書かれたのではない。心に向かって書かれたのだということをもう一度思い出していただきたいと思うのです。

これをweb日記に引用したのは音楽をやる側になって間もない頃でした。まだ自分で曲作ったりもしてなかった。四年ちょっと前です。未だに楽譜を見る演奏はほとんどしていないけど、バンドで演奏したり自作自演もするようになって、聴くことを通じて以前よりも深いレベルでその音楽を作った人たちとつきあえるようになったような気がしています。

ハラカミさんのツイート (@Oponch_kun_bot)をさかのぼって見ていて、「時間を用いた表現(音楽、映像等)って、そもそも物欲と結び付きにくいんだよなー。体験出来るって事が重要なので、持っておく事は重要じゃない。録音したものを再生する事さえも体験だもんなー。」これには膝をぽんと打ちました。「再生する事さえも体験」、まさに!

わたしは外出中に音楽聴くのが大好きで、聴いている音楽と自分のまわりの景色や空気、どちらも移り変わって混じり合っていくのは実に贅沢な体験だと常日頃から感じているのですが、例えばそんなとき、音楽を発信している人の意図やうたに込められた想いを直に受け止めてしまえたような気がしてしまうことは多々あります。錯覚かもしれないし、誤解や思い込みの入りこむ余地は重々あるにせよ(それすら間違いじゃない)、そして非常に限定された範囲での話だけれど、それはたしかに強力な魔法の一種なのかもしれません。音階や音色やリズムや言葉など、多彩な要素が絡み合って複合的に作用して、時の流れを飛び越えて時間を共有することによって人と人の心を結びつけうる、なんてことは。

ここまで書いて、頭の中が整理されるどころか、本当に大丈夫なのか自分?という疑念も湧き起こってきましたが、これからも自分なりに真摯に謙虚に音楽と向き合っていけたらいいなと願っています。要は、ファナティックなアマチュア音楽愛好家ということか。





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