2011年4月16日土曜日

根無し草

日々いろんなことを考えます。考えすぎてわけわかんなくなったりしてます。
この勢いだと一週間後には全く違うこと言ってるかもしれない。
でも今は考えすぎなくらいでもいいような気がしてます。
そんな人間が今いてもいいかなって。

わたし音楽大好きだけどミュージシャンでもなければアーティストでもないわけだし。

チェルノブイリについての本を何冊か借りてきて読みました。火の粉がわが身にふりかかってきてようやくちゃんと知ろうとする自分がつくづく恥ずかしく情けないけど。
ナージャの村という写真集には、汚染された地区に住みつづけている人たちの暮らしが描かれています。ヤギと猫二匹をかわいがっているおばあさんを見て、自分がこのおばあさんの立場だったらやっぱり同じ生き方を選ぶような気がしてならなかった。

特に印象に残った言葉
「もしロシアを捨て天国に生きよ、といわれたら、わたしはいう。天国はいらない、故郷を与えよ、と。」
「どこへ行けというのか。人間が汚した土地だろう。」


今回の津波で家や家族やふるさとを奪われた人のことを考えます。
目に見えない放射能の中で今も苦闘している人や家があるのに帰れない人のことを考えます。

大震災が起こって週が明けてからの一週間くらいはきつかった。東北地方の被害のニュースに愕然として無力感をおぼえ、さらに、原発の事故がどうなるか全くわからないけどここで関東の経済がストップしたらまずいから、できるだけ普通の生活を続けるしかないと頭ではわかっていたけど、計画停電の影響で職場も混乱してたし、なんかもう決死の覚悟で仕事に行ってた。
日常生活がどれほど多くの人と直接的にも間接的にも関わっているのか改めて意識した。たとえばお腹が空いてコンビニでお弁当を買ったりするとき。コンビニは近くに何軒かあっていつどこへ行っても品揃えが豊富で、お金さえ出せば手軽に食欲が満たされる。そういう種類の便利さに慣れすぎて無感覚になっていたけど、実際には、食材を作る農家の人、調理する工場の人、容器を作る工場の人、運搬する人、コンビニで働く人、などなど、お弁当一つとってもやたら多くの人が関わっている。そしてその工程にガソリンや電力は不可欠で。なんという複雑な社会に生きているのでしょうね。考えると途方に暮れてしまう。

自分の住む街に特に愛着を感じないしどこでも生きていけるようになりたいとずーっと思ってた。根無し草に何となく憧れてた。でも都内にライブ見に行って夜中に帰ってくると人気のなさに毎回ほっとするし、去年、仕事のあと河原をよく散歩して帰るようになってから、ここらもそんなに悪くないかもと思えるようになった。護岸工事されていて特にきれいでも何でもない川だけど、それなりに鳥もいて花が咲いて、何より空が広々してる。
埼玉のこの街に引っ越してくる前は西多摩に住んでたから、富士山てのは天気のいい日に西の方に見えるもんだと無意識に思い込んでいるフシがある。それは、太陽が東から昇って西に沈む、というのと同レベルでわたしの世界観を構成してる。もしこの「ふるさと」を奪われることがあったら、西の空に見える富士山やこの河原や広い空にいつまでも焦がれるかもしれない。失われたからこそ記憶の中でよりいっそう美しく感じられるのかもしれない。

震災のあと親しい同僚や友人と放射能について話していて、「だって他に行くところがない」「逃げ場がない」というようなことを諦め半分で口にするのを聞いて、そうだよなと思うのと同時に、大好きな人たちにそんなことを言わせる今回の事態を恨めしく思った。農家の人が土地の放射能汚染に絶望して自殺したというようなニュースを見ると非常にやるせなく悲しい。

生活と土地は密接に結びついていて、大切な人やふるさとは他の何物にも換え難い。数値で一般化するだけじゃ見えてこないこと。

そんなようなことや、他にもいろいろ、とりとめなく考える日々です。

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